その1948年の春,もう一つ忘れ得ぬ事件が起った。
ペーテが日本から小さな小包を受け取ったのである。中には新たに京都で発行され始め
た物理学雑誌「理論物理学の進歩」の最初の二号が入っていた。
それらは茶色っぽい粗末な紙に英文で印刷され,全部で六篇の短い論文が載っていた。
第二号の
最初の論文は「波動場の量子論の相対論的に不変な定式化について」と題された,東京文理科大学のS.トモナガによるものであった。
その表題には脚註がつい
ていて,「1943年に日本語で発表された論文から翻訳した」とあった。ペーテは私に,この論文を読むようにと渡してくれた。
そこには,ジュリアン・シュウィンガーの理論の中心的アイデアが,何らの数学的技巧
も用いずに,簡単且つ明瞭に述べてあった。これはまことに驚くべきこと
を意味していた。ともかくも,戦争による破壊と混乱の真只中にあり,世界の他の場所から全く孤立していながらも,トモナガは日本において,当時他の如何な
る所にあった如何なるものよりも,幾多の点で進んでいた理論物理学の一学派を維持していたのであった。彼はシュウィンガーに五年も先んじて,しかもコロン
ビアの実験に何ら助けられずに,新しい量子電気力学を独力で推し進め,その基礎を築いていた。
彼は,1943年には,その理論を完成させておらず,それを実際問題に適用できる段
階までは発展させていなかった。…………しかし,トモナガは,最初の本
質的な一歩を踏み出していた。そして,1948年の春,東京の灰と瓦礫の中に坐りながら,あの感動的な小さな小包を私たちに送ってくれた。それは深淵から
の声として私たちに届いたのであった。
F. J. ダイソン (プリンストン高級研究所教授)
自伝的回想 "宇宙を乱す" Disturbing the Universe より,
訳は亀淵迪 (現:筑波大学名誉教授)による。
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